瀧野塾の塾長「瀧野裕行」。略歴と共に今まで語られてこなかった瀧野の生い立ちもご紹介します。

略歴

  • 1991年 朝日大学歯学部卒業
  • 1995年 タキノ歯科医院開設
  • 2006年 医療法人 裕和会 タキノ歯科医院開設
  • 朝日大学歯学部 非常勤講師(歯周病学講座)

生い立ち

ニューヨークで生まれる

父は京都府立医大からの出向でニューヨーク州立病院で3年間勤務しており、その間に私、瀧野裕行が誕生。
姉と兄の末っ子として同病院で産声をあげた。当時、海外での出産は珍しくニューヨーク誌に掲載されたらしい。

父は帰国後、第三内科の教授となり私の人生とは真逆に肝臓の世界的権威となり医学界を上りつめいく。
父の自慢は、毎年The international who's whoという人名辞典に名を連ねていたことだった。

ちなみに私の著書"ペリオサブノート"は父の"内科サブノート"が由来である。

お坊っちゃま幼少期

1週間に7つ以上の習い事をこなすスーパーお坊っちゃまと言われていた(笑)

水泳や野球、ローラースケートなど運動神経も優れておりスポーツ好きの小学生だった。
また南郷塾というスパルタお受験塾に通い、毎夜お弁当持参で正座で勉強していた。
その頃、塾で仲良しだった3人が歯科医師になっているのは不思議な縁を感じる。

グレにグレた中学高校時代

私立中学受験に失敗し地元の公立中学に入学したが、当時、校内暴力真っ只中で窓ガラスも割られているくらい学校は荒れていた。
自分もグレなければイジメられると感じていたが、何より不良仲間と遊ぶのが楽しかった。
学園祭ではバンドを組みながらボーカルをし目立ちたがり屋だったのは間違いない。

両親は国際学会で長期間にわたり家を空けていたため、お手伝いさんしかいなく格好の溜まり場になっていた。
高校受験にも失敗し益々グレにグレていき、暴走族まがいの生活を送っていた。
学校は停学3日から始まり無期停学を2回もくらい、警察にも何度もお世話になったのに退学にならなかったのは奇跡としか言いようがない。

高校3年生の時このままでは人生ろくな者にならないと思い猛勉強をし大学受験に臨んだ。

楽しいことしか記憶にない大学時代

反抗期の高校時代であったため、親の七光りなんて真っ平御免だと言い放ち、歯科医になろうと思った。
幾つかの歯科大学を受験したが岐阜歯科大(現朝日大)だけが私に合格通知をくれた。

大学時代の学生生活は楽しく刺激的なことばかりで、バブル期でもあったため日本中が華やかで賑わっていたと思う。

しかし三年生の時に突然、父親が急逝し人生が一変した。
途轍もなく辛い日々だったが精神的に強くなり、ハングリー精神が培われたことで後の人生には大きなプラスとなっていると思う。

毎日院長と2人で160人診ていた勤務医時代

父親から必ず卒業したら海外へ留学しなさいと言われていたが経済的な理由から断念。
京都へ帰省してすぐに開業医(寺本歯科)で働いた。
とにかく早く開業したい一心で給料のことは一切言わずに、1日70人以上の患者を担当した。朝9時から23時まで働き続けた。

欲しい材料や器具機械は何でも買ってもらったし、スタッフ教育やクレーム処理まで全て任されていた。
院長は親代わりであり揺るがない信頼関係で結ばれていた。
寺本院長は患者のためにすべてを捧げたような人生であった。私の歯科医師の原点はここにある。

廃れた医院を居抜きで開業

資金がなかった私は、流行らなくて6年で閉院してしまうような歯科医院を買い取って開業した。
地域では評判の悪い医院でゼロからスタートと言うよりはマイナスからのスタートであった。

悪い評判を払拭するために、必死で出来ることは何でもした。
受付での説明、TBI、OHI、スケーリング、クレーム対応、アポイントメント、処置後の電話などすべて自ら一人で行いスタッフに最高のホスピタリティを実践してみせた。

この頃の私は何の武器も特技もないため、優しい治療、痛くない治療、寄り添った治療を徹底して行った。
その時、全く痛みの感じない感動を与える浸潤麻酔を追求することになった。

JIADSとの出会い

開業して約3年が経った頃、患者さんも増え軌道に乗ったと思われていたが心にぽっかりと穴が空いたような虚しさが残っていた。
それは口八丁手八丁だけで患者を集めたものの、自信を持って患者を治せていない、恥ずかしくない治療、やり甲斐のある治療が出来てないことに気付いた。

そんなことを先輩に相談したところ、「JIADS 6ヶ月コースに行ってみたら?」と紹介された。
それまで私はセミナーというものはせいぜい1dayくらいで、ほとんど受けたことがなく、JIADSは衝撃的であった。
後頭部をトンカチで叩かれたような、今まで何をしていたんだ!というような衝撃が走った。

小野善弘先生、宮本泰和先生に師事

最初に受けたJIADSペリオコースでは小野善弘先生と宮本泰和先生らからペリオをイチから教わり、その後すぐに中村公雄先生から補綴を学んだ。
大学の先輩でもある宮本先生を師匠と仰ぎ、医院見学や講演の追っかけをしながら付いてまわり、技術と知識、治療に対する考え方など様々なことを学んだ。

小野先生は遠くからいつも私の成長を見守って下さり、厳しい目を持ちながらも温かい声を掛けて下さっていた。
私が海外講演を終えるといつも「親父が喜んでるぞ!親父を超えたか!?」と励ましてくれてた父親のような存在である。

ハーバード大学研修

JIADSペリオコースと補綴コースを受けた後、JIADSハーバード大学研修の募集があったので即申し込んだ。
Myron Nevins先生をはじめ多くの先生方から骨代謝の基礎からペリオ・インプラント、矯正との連携、オペ見学など多くを学んだ。

当時、見るもの聞くもの全てが新鮮で目から鱗の連続で楽しくて仕方なかった。
ここでは日本との臨床の違いやグローバルな視点から学ぶ大切さを知った。

改装・改装・改装

居抜きでスタートしたこともあって開業以来、6回くらいの改装・増築を繰り返した。
意外に私は小心者で少しずつチェアーも増やし小さな改装を繰り返した。
今考えると、ある程度一気に大きく改装し、チェアーも数台増やした方がよかったと思う。

当初、チェアーを何台か入れ換えたり増台していくうちに、フカフカチェアーに患者さんを座らせて快適に治療を受けていただきたいと言う思いが強くなり、分け隔てなく全台フカフカチェアーにすることが小さな夢でした。
今では、患者さんのニーズにお応えすべくデンタルエステサロンも増設した。

JIADSクラブ大阪 会長就任

スタディグループJIADSは全国に北海道、東北、関東(東京)、中部、関西(大阪)、中四国、九州にそれぞれ勉強会の会員が所属している。
中でも大阪は本家本元のON(小野中村)スタディクラブの流れを受け継ぐ歴史ある勉強会である。

その由緒ある勉強会の会長に2012年に就任に重責を担った。
役職が人を育てると言うが、まさしく任期中は多くの著名な講師を招聘し、先生方とも交流が深まり、歯科医師としてまた人としても成長させていただけたと思う。

伝説の7人同伴

私の代名詞でもある"祇園のパトロール"は30年以上続き3億円は祇園の花街に落としたであろう。
それはまったく無駄遣いだったとは思っていない(笑)

この世界でも多くのことを学び、多くの人を接待し多くの人を楽しませ、私自身の仕事のモチベーションにもなっていた。
7人同伴とは7人のホステスと食事に行き高級クラブに来店することだが、簡単に出来ることではない(笑)
なぜなら本来、7組来店するはずのお客さんが私1人しか来ないので、オーナーであるママさんに了承を得る事は並大抵のことではない。
そんな事は自慢にもならないことは良く分かっている(笑)

朝日大学 教授就任

2014年、故 渋谷俊昭教授のもと朝日大学 歯学研究科 歯周病学の客員教授に就かせていただいた。
現在まで年に一回歯学部3年生の講義をさせてもらっているが、当初は3年生に苦戦をしていた。
というのは、私の講義でこれほど寝てしまうのかというくらい学生が寝ていたからだ。

それから講義内容を考えて創意工夫することで、今ではほとんどの学生がしっかり講義を聞いてくれている。
…しかし、卒業した学生に講義の記憶を聞くと、祇園パトロールの写真しか覚えていないそうだ(笑)
※写真は、現在大変お世話になっている辰巳順一教授とAAPサンディエゴにて

AAPサンディエゴ講演

海外講演は、ロサンゼルス、ハワイ、ボストン、シアトル、ベルリン、マドリード、サンディエゴ等々沢山させてもらった。
2010年AAPハワイの講演では、メカニックトラブルもあって納得いく講演ができず大失敗に終わり、初めてジアズの仲間の前で涙を見せた。
この時は、もう二度と身の丈に合わない海外講演はしないと誓ったが、2018年に再びAAPサンディエゴでは納得いく講演ができ、リベンジ出来たときは、感無量であった。

京都NGSCの仲間たち

京都にはNGSCと言うスタディーグループがある。これは前田潤一郎先生、中田光太郎先生と私の3人で創った勉強会である。
当初のコンセプトは勤務医の知識と技術の向上、若手ドクターの育成教育であったが、その後、吉川宏一先生や窪田努先生、山田邦昌先生なども参加され今ではレベルの高い講演をしていただける勉強会である。何事も継続することが大切である。

JIADS理事長就任祝賀会

2018年1月にJIADS理事長に就任した。これほど大きな組織の長に自分がなれるのか、自分のような人間がなってもいいのか、悩みに悩んだ末に先輩後輩達の後押しもあり、たとえ批判を浴びようと後悔しようとも、やらずに後悔するよりマシだと思い開き直って決断した。
テーマは「継往開来」先人の事業を受け継ぎ、発展させながら未来を切り開くという意味であるが、私は特に知識技術だけでなく経営や医院マネージメントにも目を向けていくことを推奨した。

開業25周年

2025年で30周年を迎えるが、少しずつテナントの賃貸を増やし増設をしてきたが、開業25年を過ぎた頃に縁あってオーナーからビルを譲り受けることができた。
今は亡き創設オーナーには大変お世話になったので森川ビルという名を受け継ぐことにし、その名に恥じないよう大切にしていきたいと思う。
長年に渡りタキノ歯科医院に携わってくれたスタッフや関係各位に感謝感謝である。

OJ会長就任 20周年記念大会

OJ(Osseointegration study club of japan)は2001年に日本を代表するインプラント治療に関わるスタディグループのトップが一同に集まり結成された学会である。私も設立当初から参加しているが、トップレベルの先生方が集まる緊張感のある学会であった。

そんなOJの会長になるというのは、日本中の猛者達を束ねる力が必要になり、まだまだ未熟だった私を多くの方々が支えてくださり20周年記念大会を無事終えることができた。この場を借りて、中田光太郎実行委員長に感謝の意を表したい。

瀧野塾開講

COVID-19のパンデミックでは、自由に行動できない不便さと、その影響が学びに与える重みを痛感した。
オペの見学にお越し下さった先生の中には「この短時間で見ているだけでは理解が難しい」という意見をいただいた。
こうした経験から”場所や時間に制限されず、いつでも技術を学べる場”に可能性を感じ、この塾を開講することを決意した。

瀧野塾が、医療技術の未来を支える基盤となり、医療従事者が自由に学び合い、高め合う場所の一つとなることを願っている。